ワンライン

juiceのホールコンに行ってきた。

かりんちゃんのソロライブに行って、久しぶりにここに書いて、Twitterじゃなくて、どこかに感じたことをまとめて書いておくとよいなぁと思って、また書いておく。

 

とても、楽しかった。

こんなに楽しいものだったんだなぁ、juiceのライブってね。

忘れていたね。

再び、思い出させてくれて、ありがとう。

うえむーがいるから、行く、という要素は自分の中で強いので、本当にうえむーには感謝です。

 

うえむーがMCで、ワンラインは、今の目の前のメンバーの横一列、これまでの過去からつながるライン、ふたつの意味が…というような話をしていた。

今のjuiceを見て、昔のjuiceを思い出すこと、懐かしむこと、恋しく思うことは、決して悪いことではないんじゃないか、と思った。

(今のjuiceをよく知らないし、知ろうという努力をあまりしていないので、後ろめたさはある)

 

今のjuiceを見ているうちに、あの頃のメンバーたちの姿が浮かび、あの頃に比べて、歌や表情がさらに変化し深みを増したメンバーを見つけて喜び、グループ内での立ち位置の変化に感慨を覚え、変わらずに歌い続けている姿が嬉しく、このグループで歌い続けてくれていることに感謝した。

あの頃見た、たくさんのライブが、走馬灯のように浮かんだりもした。

清水のホールコンとか、高松のライブハウスとか、武道館とか。

 

久しぶりにきた人間には久しぶりにきた人間の、楽しみ方があるんだなぁと思った。

 

juiceの人生讃歌楽曲(キーポンとかキーポンとか)が胸に沁みた。

キーポンとか如雨露とかゴールとか、ああいう歌を聞いて、私はjuiceに励まされ、泣いて歩いた夜道があるので、香水やひといきとはまた違う、オタクに寄り添い、明るい方へと引っ張りあげる、juiceの楽曲のもうひとつの魅力を感じる。

 

歌詞に、メロディに、メンバーの歌声が重なることで、あの頃、juiceの歌は、ものすごい力で、私を慰め、背中を押した。

 

そして、天井の高い空間で歌われる、キーポンやマジックオブラブの素晴らしさ。

デカい会場がよく似合うんだわ。

それから、2015-16くらいのライブハウスを思い出させる、懐かしい曲の数々。

 

なにより、うえむーが、めちゃくちゃ素敵でさぁ。

これからのjuiceの植村あかりを、見たかったなぁと思わせる、良さだった。

香水の、切なさや幸の薄さを、表情と歌声で、こんなに上手に表現できるひとが、グループアイドルをやめちまうんだよぉ。

惜しむ、惜しむ、惜しむ、ものすごく惜しんで、うえむーの卒業を見送ります。

juiceのうえむーとお別れしたくなくなってしまったよ。

 

ライブを見終えて、このツアーにたくさん行けないことをとても残念に思った。

仕事のため、うえむーと一緒に(?)沖縄に行けないことを、とても残念に思った。

juiceの沖縄でのライブハウス公演は、「juiceのライブ」と言われてパッと浮かんでくる中に必ず入っている。とても楽しいライブだった。

juiceとの楽しい思い出がある沖縄で、また、もう一度、うえむーがパフォーマンスしているところを見たかったなぁ。

武道館も仕事で行けそうにない。

どっちも、日程を見て、ハナから諦めていたけれど、今日のライブを見て、残念さが増した。

武道館は少しあがいてみようかなという気持ちにさせてくれた。

そういう気持ちにさせてくれて、ありがとう。

 

思えば、去年のホールコンも、昔のオタクが久しぶりに来ることを歓迎するかのようなセトリだった。

楽しくて当日券を買ったのだった、今日みたいに。

うえむーのおかげで、あの頃のjuiceを、懐かしく、切なく、恋しく、楽しく思い出すことができて、よかった。

トリマーさんになりたいと言って、末っ子感バリバリだったうえむーが、オリメンの中で最後までいてくれるとは、こんなに素敵な歌手になるとは。

うえむー、続けてくれてありがとう。

 

うえむーは、しあわせのかたまりのようなひとだと思う。

しあわせがやってくるとかではなくて、うえむー自身がしあわせの源のような、そういう雰囲気を持っている。

しあわせそのもののひと。

 

うえむーの卒業後の人生にも、幸多からんことを。

みやもとかりんちゃん

みやもとかりんちゃんのライブを見てきた。

 

とにかく、ずっと泣いてた。

歌、ちゃんと聞いてたの?と怒られそう。

聞いてなかったのかもしれない。

 

まず、かりんちゃんが現れてすぐに、わたしはこの人に救われたんだよな、と思って泣いた。

わたしがJuiceのコンサートに初めて行ったのが、グループとして初めてやる中野サンプラザの単独公演で、その頃の私は、確か、就活に失敗して引きこもりだったんではなかったか。

思い出したくないほどつらい日々で、すべてがおぼろげな記憶である。

 

その次は、ありがたくて泣いた。

元気で歌い続けてくれていることが、あの頃と変わらずに真摯に歌い続けていることが。

 

わたしはかりんちゃんやJuiceに勇気をもらい、コロナが始まった頃に仕事を辞めて、学校に通い直し、そちらで忙しくて、ハロプロとも疎遠になり、わたしはわたしの人生をやっていたのだが、その間もかりんちゃんはかりんちゃんの人生を黙々と続けてきたんだな、ということが嬉しくて、泣いた。

 

その次は、この人がしあわせでありますように、好きな歌を歌い続けられますように、どうか、一秒でも多く、しあわせな瞬間で満たされていますように。

 

その次は、どうか、健やかに。ずっとずっと元気でありますように。やりたいことをできていますように。

 

その次は、この人のおかげさまでわたしは今元気で生きてるんだよな、充実した人生のようなものを過ごさせてもらっているんだよな、と思って泣いた。

 

そんな感じで、泣くのを繰り返していた、

祈りと感謝と有り難さと。

かりんちゃんが元気で活動してくれていることが、こんなに嬉しいなんて。

本当にとっても嬉しかったです。

 

 

「この歳になると…」と自身の考え方の変化を語るかりんちゃんを見ながら、めちゃくちゃガチ恋めいたことを思った。

この人のそばで、この人と人生を歩いていけたら、とてもよいのにね、みたいなことを。

自分でもびっくり。

わたしは、かりんちゃんを通してかなざわともこちゃんに恋しているオタクだと、自分のことをそう思っていたので、金澤さんにガチ恋だとしても、かりんちゃんにガチ恋はありえないのだと思っていたから。

 

勢いでめちゃくちゃキモいことを書いてしまった。

わたしは、みやもとかりんちゃんと、友だちでも恋人でも先輩でも後輩でもペットでもなく、アイドルとオタクという形で出会えたことを、めちゃくちゃ感謝しているので、みなさん、どうぞ安心してください。

 

わたしはもう熱心なオタクではなく、一つのツアーで1公演が自分にとって適切な感じなので、かりんちゃんのことをなんにも応援できていなくて、心苦しいですが。

戯言を続けると、また、会えるといいな。

歌い続けるかりんちゃんにまた会いたい。

いつまでもとくべつ。

いつまでも、永遠に、わたしのアイドル、みやもとかりんちゃん。

 

常にJuiceとともにあった頃のことを、今日、何度も思い出した。

あなたのステージを初めて見た頃の、衝撃を、僥倖のような喜びを、

熱心にJuiceを追いかけたあの頃の熱さを、輝きを、

懐かしく思い出した。

 

いつも、ステージに立つことを、いっとう、楽しんでいるように、歌を歌い、踊る、かりんちゃんのことを思い出した。

ゴムまりのように、1人だけ無重力かのように、跳ねて飛んで踊っていたかりんちゃんを思い出した。

指先まで伸びやかに動かして踊るかりんちゃんを思い出した。

指先までしなやかだから、ホールコンで遠くから見たとき、人一倍、素敵に見えたことを思い出した。

武道館で白いスーツに身を包み、オタクの合唱をさばくかりんちゃんの姿を思い出した。

本番で見せるかりんちゃんの度胸が、わたしはとても好きだったことを思い出した。

新米のツヤツヤのおにぎりのように、白く輝いて、生命力にあふれたかりんちゃんを、ライブハウス、ホール、武道館…いろんな会場から見上げたことを思い出した。

 

これを、面影、と呼ぶのだろうか。

年齢を重ねて、少しシャープになったかりんちゃんは、だけど、変わらず、みやもとかりんちゃん、だった。

わたしが大好きで、大好きで、ほんとに好きな、みやもとかりんちゃんだった。

 

がんばったね。わたしも、かりんちゃんも。

ここまでよくやってきたよね、という気持ちに包まれた。

 

かりんちゃんは、どん底で転んで起き上がれずに横になったままのわたしを、立ち上がらせ、歩かせ、生きる方へと連れてきてくれた。

彼女のステージを見るたび、わたしは、そんな自分のこれまでを重ねずにはいられない。

あのステージでの笑顔に、何度救われただろう。

あなたの歌が聞きたくて、働いて、とにかく生活をして、駆けつけたライブがいくつあったでしょう。

今も元気にライブをしていることが、とても嬉しかったです。

 

生きて、また会いましょう。

 

もう、わたしは、言うなれば、よそ者で、今は他のアイドルや韓国ドラマにうつつを抜かしており、そしてやりたかった仕事をして、仕事に追われています。

ライブに行ってもわかる歌もほとんどないけど、あなたが元気にステージに立っていることが、本当にとても心底嬉しかったです。

 

本当はお見送り会に出て、お礼を言いたいのだけど、昔から私は、お見送り会など接触と言われるものを苦手としており、この臆病者をお許しください、と思いながら、ライブが終わってすぐに会場を出た。

日は沈み、肌寒い。

今日昼間に家を出る時は、ぽかぽかで、暑いくらいで、わたしは久しぶりに明るい色の服を着て、あぁ、かりんちゃんのおかげで、わたしにも春が来たな、と思ったのだが。

春、あなたのいるところだけは、いつも春。

ということで、

 

みやもとかりんちゃんよ、永遠なれ!

今日のライブのなんと余韻の引くことよ…

 

Twitterが私の生息域、主として暮らす場なのですが、今日のコンサートと離れるのが惜しく、Twitterを見ないということで、あがいています。

しかし、こうしている間にも、今日の公演の情景が、私のドロドロした感情の中へと溶けていき、私由来の癖の強い感情に飲み込まれ、跡形もなくなっていきます。

あの時間が遠くなっていきますね、さみしいよ。

 

昨日の気持ちは嘘ではないけれど、今日は今日で、少し違うことを思ったので、書いておきます。

 

まず。

Juice=Juice最高。

みやもとかりんちゃん最高。

ともかりん万歳。

 

こんな制約だらけの時代に、最善を尽くすに留まらず、最高を作り出すJuice=Juice。

うちらのJuice=Juice!!

 

ライブビューイングでは、ステージ全体を映した映像より、メンバーの表情をアップで映した映像が多く、そのせいか、メンバーのみなさんを、久しぶりに身近に感じ、過去、ライブハウスで見たステージの光景が、何度も頭にチラつきました。

例えば、高松の、地下のライブハウス。客席は満杯。開演直前に入場した私は、女限の後ろの方で、場内場外を分ける黒いカーテンに身体の半分を覆われながらライブを見ていました。だけどすごい楽しく音楽を聴いて身体を揺らしていて、そしたら、お客さんの頭の隙間から、うえむーが楽しそうに客席を見る表情が見えて、もっと楽しい気分になったりとか。

そういう身近さです。

 

各メンバーがかりんちゃんとペアで歌うパートでは、肩を揺らして泣きました。

選曲が、たまらなく良かったです。

(メンバーのみなさんの「Juice=Juice」の解釈と、私の「Juice=Juice」の解釈が一緒…)

 

ここのパートは、今年、Juice=Juiceの単独公演をともにできなかったひとへの、というか私への、労い・労りのようにも聞こえました。

『これまで、うちらとたくさん思い出作ってきたの、知ってるよ、何年という積み重ねがあるじゃんよ』と、肩組まれてトントンされているような…。

特に「香水」は私の思い出の曲なので。

 

「泣いていいよ」の創作ダンスパートの、しなやかで伸びやかなかりんちゃんの所作、わたしのみやもとかりんちゃん、でした。

 

『あぁ、ほんとうなら、こんなはずじゃ…』なんて思う隙もなく、久しぶりのJuice=Juiceのライブが本当にすごく楽しかったです。

 

心の中でだけど、大きな声でメンバーの名前を呼んで、控えめながら拍手もして、前後左右の方には申し訳ないけど、ペンライトも好きなように振りました。

『あぁ!これだよ!Juice=Juiceのライブだよ!』

自分の生活が、Juice=Juiceと、Juice=Juiceのライブとともにあった日々の感覚が蘇りました。

 

Juice=Juiceが歌う、ひとつひとつの曲に、メンバーの歌声に、歌詞に、私の個人的な感情・情景・思い出・涙・ため息・喜び・にやけなどなど、記憶が、こびりついて、刻まれています。

 

Juice=Juiceの音楽に、励まされ、癒され、慰められ、ぶっ飛んで、ハイになって、怒って、泣いて、笑って、浮かれて、酔って、現実を忘れ、夢を見て、どうにかこうにか労働に向かい、あるいは、ふと現実に引き戻され、しらふになって、まじめになって、過去を振り返り、今を思い、未来を見つめて、人生を考え、最後は背中を押されて、自分は今ここにいるのだな、と思いました。

他でもない、Juice=Juiceが歌ったからこそ、私に届いた音楽なのですよね。

 

私にとっては、Juice=Juiceの存在、特にライブと楽曲が、自分の心のバランサーのような、世界の捉え方を切り替えるためのスイッチのような、そんな存在だったのかもしれないなぁと今思います。

 

2020年、いろいろつらかったけど、今日まで生きていてよかったです。

今、生きているからこそ、見られる光景、聴ける音楽、湧き上がる感情なのだ、と、噛み締めました。

 

1年の最後の最後、こういう時間をくれたJuice=Juiceと宮本佳林ちゃんに感謝しています。

今年のいろんな記憶をまったく塗り替える楽しさでした。

来年ではなく、今年、このライブを見れてよかった。

今、この時代に、Juice=Juiceがいてくれてよかった。

今のJuice=Juiceを見れてよかった。

 

Juice=Juiceと同じ時代を生きていること、これから先もJuice=Juiceとともに歳を重ねられることを、とてもしあわせに思います。

 

みなさんもそうでしょうが、今年、ちょっとほんとにしんどかったのです。

それでも、しんどくても、生きててよかった。

私のことなので、これから何回もしんどくて無理な時があると思うけど、今日のような日があったことを、いつかのしんどい時に思い出せるといいなと思います。

 

 

最後、アンコールで、Juice=Juiceのみんなが手を繋いで挨拶してくれて、とても嬉しかったです。

あぁ、Juice=Juiceだぁ、と思った。

 

本音をいえば、もっともっともっとたくさん、「今」のJuice=Juiceを見たかった。

今日のライブがあまりにも楽しくて、そんなことを思いました。

 

明日以降なのですかね、もう二度と、かりんちゃんのいる今のJuice=Juiceを、この目で見ることはない、ということに、落ち込み出すのは…。

自分が思っているよりも上を行く熱量で、かりんちゃんがいる今のJuice=Juice、Juice=Juiceのかりんちゃんのことが好きだったんだなぁ、とわかりました。

そういうライブでした。

 

Juice=Juiceと、Juice=Juiceの宮本佳林ちゃん、大好き。ありがとう。

 

 

みやもとかりんちゃん!!

卒業によせて

そうか、前日か…。

結局スカパーの契約もせず、かといってライブビューイングのチケットも買っておらず、前日を迎えています。

明日はたぶん映画館に行くかな。

同居の家族に外で酒を飲むなと言われているのですが、こっそりビールを飲みたい。

 

かりんちゃんの卒業公演に落選して、いろいろ思うところはあり、Twitterでグダグダつぶやいたり、メモに残したり、今も2時間くらいブログを書いては消したり、していたのですね。

でも、わざわざここに書いて残しておくことでもないような気がして、全部消してしまった。

なんだろうな、忘れたくないこと、いつか忘れちゃいそうで書き残しておきたいこと…。

…たくさんあるけど。

 

ひとつ、書いてみると、私はいまだに、かりんちゃんの今回の卒業公演を受け止め切れていないような気がします。

当初、発表された、卒業に向けたホールツアー、卒業公演、それらの賑やかさやワクワクが、ほんとに見事に雲散霧消(個人的な気持ちとしては、雲が立ちこめ霧がかかり見えなくなって消えてしまったイメージですが)、次々と消えていく中で、いまだに私はそれを認められずにいます。

 

私は、かりんちゃんを好きになってから『かりんちゃんJuice=Juice卒業しなきゃいいのに』ってそれしか思っていなかったのですが、2019年のゆかにゃの卒業公演とホールツアーを見て180度考えが変わって、『かりんちゃんはどんな卒業公演をするだろう』『かりんちゃんはどんなことがしたいんだろう』『卒業に向けた公演でかりんちゃんのやりたいことが見れるんだ』と、いつか来るかりんちゃんの卒業を、心のどこかで楽しみにしていました。

(それだけゆかにゃの一連の卒業公演は素晴らしかったです。ほんとに楽しかった。寂しいのにすごく楽しかったです。)

だから余計に、本当は違う、こんなはずじゃなかった、こんなふうに卒業させるなんて神さまはあんまりだ、とか。

私が、かりんちゃんのオタクとして、楽しみにしていた、望んでいた卒業公演は…とか。

どうしても会場に行かなくちゃ、という気持ちになれず、今日を迎えているのかなと思ったりもします。

 

己の未熟さ…。

 

 

ここで、突然、 私のこれまでをざっと振り返ります。読み飛ばしましょう。

 

2015年の春、Berryz工房オープニングアクトで、Juice=Juiceの歌を初めて聞きました。映画館で。一度聞いただけなのに、「Wonderful World」のメロディが頭にしっかり残っていたのを覚えています。

その後のホールコンサートで「香水」を聞いて、金澤さんのフェイクに衝撃を受け、Juice=Juiceを好きになり、かりんちゃんを好きになり、ハロプロを好きになり…。

グループに変化が続く中で、かりんちゃん依存度が高まり、少しずつ、ハロプロ全体への興味が薄まり、特に2019年はほぼJuice=Juiceの現場しか行ってなかったと思います。

他グループの動向に関心を持つことが減り、当のJuice=Juiceについても、Juice=Juiceのライブはすごく好きだけど、メンバー個々の活動(たとえばバースデーイベントとか)に自然と関心を持ち、足を運ぶ、ということが少なくなりました。

かりんちゃんがいるから、という強い思いが、Juice=Juice現場に行く理由、という時期もありました。

時を同じくして、それまでこまめに行っていた、ラジオやブログ、雑誌のチェックをほとんどしなくなり、2019年は、Juice=Juiceの現場に出かけることだけが唯一のオタ活、みたいな状況に移行していった年でした。

そうして迎えた、Juice=Juice単独現場がほぼない、且つ、私自身ほとんど現場に行けない日々の幕開け…

かりんちゃんの卒業公演がなくなり、暗礁に乗り上げ、ふわふわしだした状況を直視できず、事実を受け止めきれない私は、ハロプロに触れたくなくなって、なすがまま、インターネットの海をただよい、海の向こうにたどり着きます。

いい音楽で一度、素晴らしいパフォーマンスで二度魅了され、あぁ、死ぬまでアイドルオタクなのか、まじか…業…と思いつつ、でも、かりんちゃんほど、大好きで大好きで大好きなひとは、もう現れないかなぁ、とも思うんですよね。ぽつねん。

 

誰かひとりを、あれだけ好きになって、追いかけるのは、かりんちゃんが最初で最後だといいなと、心底、本当に本当にそう思っています。

ただ1人、私の永遠のアイドル、みやもとかりんちゃん。

 

卒業後のソロ活動も活発に続けるとおっしゃっているので、なるべく追いかけて行きたいと思いますが、現場に気軽に出かけていくことがままならない中、しかしブログやラジオ、雑誌をまめにチェックする習慣を手放してしまったので、どこまで興味関心を持ち続けて、かりんちゃんを追えるだろうか、と不安に思います。

1日も早く、状況が改善されることを願ってやみません。

 

  

少し思い出を。

 

私はほとんどの現場に1人で行っていて、公演終わりの高揚感のまま、ちょっと勇気を出して地元のお店に入り、土地の食べ物とお酒をいただいて、みやもとかりんちゃん最高などとTwitterでペラペラしゃべって、ちゃんと酔っ払ってお店を出て、ヘラヘラしながら歩く帰り道がとても好きでした。

なにもかもから解放された気分で、こんなに自由なことがあるか!私は自由だ!と思いました。

 

こういうできごと、感情、ひとつひとつが、私は忘れられません。

 

かりんちゃんに出会って、自分の人生が思いがけない方向に進み、鮮やかに、豊かになった気がします。

かりんちゃんとJuice=Juiceを好きになったことで、味わった感情、出会った人・アカウント、思い出、景色、本当に素晴らしい時間を過ごしたと思います。

 

今日までのJuice=Juiceに心からの感謝を送りたいです。

明後日からのJuice=Juiceも好感を持って見守っていければと思います。

 

ゆかにゃの言葉が思い出されます。

一度でもJuice=Juiceに関わったら、Juice=Juice familyなのだ、というような、慈悲深いお言葉…。

 

私はここで、太陽系のようなものを思い浮かべます。宇宙のことよくわからないけど。

Juice=Juiceを好きになったことのある私たちは、みな、Juice=Juiceに惹きつけられ、そのまわりを近づいたり遠ざかったりしながら、まわる惑星なのだ、と。

 

現場に足を運ぶ回数が減ったとしても、Juice=Juiceというグループと、卒業メンバーへの好感は消えることはないです。

ずっとずっと、心のどこかで、Juice=Juiceの子ら(神の子ら的な)のしあわせを願っています。どうかみんな心身ともに健康で、なるべくしあわせでありますように。

 

(いつか、各時期のJuice=Juiceが再集結して、歌って踊るステージが見られる日がきたらいいなぁ)

 

 

ひとまず、めったに買わない甘いお酒を買いました。

紫色のブドウ味のスパークリングのお酒。

めでたいときは、しゅわしゅわ、ですよね。

 

明日のために、ワインも買っておきました。

日常にアイドルがいる、と感じるのはこういうときです。

メンバーカラーとフルーツ制度、ありがとう。

 

 

みやもとかりんちゃん!!

宮本佳林ソロライブ〜Karing〜へのお誘い

東京公演の興奮を思い出しては、『宮本佳林ちゃんを知ってるすべての方に、彼女のソロライブを見てほしい 』という感情にのみこまれる。

いてもたってもいられなくなる。書くしかない。でも書いたってどうしようもないのに。でも、書くしかないと思った。もう遅いかもしれないし、無意味かもしれないけど。


ここまでで、私の書きたいことは書き終えている。

迷ってるなら、来てほしい、それだけ。


宮本佳林」と出会ったことがある人なら、きっと納得できる、そんなライブだ。

ライブ自体に、ステージの上のかりんちゃんに、あるいは、ここに来た意味や、自分がかりんちゃんのオタクであることや、Juice=Juiceのみやもとかりんちゃんに出会ったということに、納得できる。

静かに頷くかもしれない、高揚感のままジャンプするかもしれない、大声で彼女の名前を叫びたくなるかもしれない、涙を流すかもしれない。

あなたの知ってる宮本佳林ちゃんそのままかもしれないし、あなたの知ってる宮本佳林ちゃんとは違う姿が、ステージの上にあるかもしれない。


いつかの宮本佳林ちゃんを知ってるすべての方に、宮本佳林ちゃんと出会ったことのあるすべての方に、このライブを見てほしい。

今の宮本佳林ちゃんを見てほしい。

すでに宮本佳林ちゃんに出会っている人にこそ、見てほしい。

オタクへの祝福に思える。

過去に宮本佳林と出会ったことがある、すれ違ったことがある、すべての人への、祝福だ。

そういうライブだ。


新しいファンの獲得、これからでいい。

それでいい。

今はこの高揚感に身を任せたい。

思いっきり味わいたい。楽しみたい。


宮本佳林ちゃんと再会するなら、今、今こそだと、ゆいたい。


いつかの宮本佳林と出会ったあなたが、宮本佳林の今を見るために、残り2公演、会場に足を運んでくれますように。

それを心から願っている。


今日10/23 大阪公演 Zepp Namba 17:30開場 18:30開演

明日10/24 名古屋公演 Zepp Nagoya 17:30開場 18:30開演

両公演とも当日券たぶんあるから!!

ゆかにゃの卒業発表によせて

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(12/23 追記)


日記と化してる。

刻一刻と気持ちは変化する。行ったり来たり、進んだり戻ったり。

昨日、寝る前、友人からLINEがきた。開くと、あやちょのブログのURLだった。
まだゆかにゃのブログも、Juice=Juiceメンバーのブログも読んでなかったのだけど、読んでみた。

つらかった。
あやちょに、見透かされたような気持ちになった。
あなたは強いひとだから、と、開き直ってみるしかなかった。
あやちょ自身が、年齢にまつわる問いかけやらに、ほとほと疲れ果て、あきれ果て、年齢を手放したんだな、と思った。
そうできるあやちょは強い。
かっこいい。
あぁ、あやちょだなぁと嬉しくなる。

私こそ、そう、私こそ、年齢に負けてる。負けてる、などと言って、つまりは年齢にこだわってる。年齢に決断を左右されている。しばられている。ただの数字をただの数字とも思えずにいるのは、他ならぬ、私。


誰のために泣いてるのか、誰のためにさみしくて、誰がかなしくて泣いてるのか。
ゆかにゃのためじゃない、私のために泣いてるのだ。
私のために、落ち込んで、さみしくなって、私のために怒ってる。

私がさみしい。
私が耐えられない。

情けない。

ゆかにゃのいないJuice=Juice。
私のために、そんなの嫌だと、私は泣いている。

ほんとにふと泣きそうになる。
街中を歩いてて。職場で仕事しながら。
奥歯を噛み締めてやり過ごす。

こんなにも変わっていくのか。
こんなにも。

どうしたらいいのかわからない。
Juice=Juiceから少し距離を置いて、他のことに没頭してみても、平穏な気持ちでいようと努めても、好転しない。

このままではずっと進めない。
ひとり、ゆかにゃの卒業を認めたくなくて、Juice=Juiceに触れずに生きていくことになる。
その間もJuice=Juiceは活動を続け、変化していく。
取り残されていく気がした。

久しぶりに、Juice=Juiceと検索して、メンバーのブログを開いた。
現実だった。
みんながみんなゆかにゃについて話していた。
そして、次の日のブログはもう違う話題になっていたりする。
確実に時が進んでいた。

わかるよ。
全部わかる。
私があまりにも突拍子もない、夢見がちなオタクということもわかってる。
たぶん、慣れるだろうし、現状としてこうなのだからその中で最適な答えを見つけて、正解にしていくしかないし。
わかるの、わかった上で、いろんな事情はわかったから、わかったから、全部わかったように仕方ないんだよと懇切丁寧説かれても、そんなんわかってるから。
そういうことじゃないから。

自分の声に自分で反論する。


わかってるけど、もう、オタクをやめたくなるほど、さみしいよ。
これから、Juice=Juiceが刻む時間から、ゆかにゃだけじゃない、今いるみんながひとりずつ抜けていくの、そんなの想像しただけでさみしくてたまらなくて、オタクをやめたくなるけど、もうやめられないくらい大好きになってしまったし、日常のそこらにJuice=Juiceを思い出させるものがあるし、どうしようもなくさみしい気持ち。

 

頭の中、聞こえてくるのは自分の声だけ。
自分の声を聞くことに、疲れてしまった。
ほかの人の声を聞きたい。
誰でもいいわけじゃない。
ゆかにゃの話をする、メンバーの声、ゆかにゃのオタクの声、Juice=Juiceのオタクの声が聞きたい。
私以外の、声が聞きたい。

 

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まとまらないけど、言葉にしなければ、発狂してしまいそうだから。

 

発表の翌朝、友人からのLINEで知る。

意外と穏やかな気持ちだった。

どこかでそんな日がくることを感じてはいたけど、その日がくるまでそのことは知らないふりしてよかったので。

 

ゆかにゃ推しのツイッターアイコンがいくつか浮かび、そうかぁ、と思った。

 

友人からは、ゆかにゃが話してる映像だけ送られてきてたので、寝起きで、その映像を途中まで見た。

映像は最後の数十秒見れなかった。

今日は仕事だから、朝の時間がなかったのと、なんか、なんとなく、それ以上、見たくなかった。

 

オタクに懇切丁寧に説明を尽くそうとするゆかにゃが、いつものゆかにゃだった。

あぁ、ゆかにゃだぁ、ゆかにゃ。

わたしたちのゆかにゃ。

 

Juice=Juiceが大好きで、Juice=Juiceの活動を楽しんでいて、Juice=Juiceであることを楽しんでいたように、私の目にはそう見えた、あのゆかにゃが、Juice=Juiceをやめるという。

 

納得はできまい。

 

アイドル=若さというメッセージを暗に発信し続けてるのが、他の誰でもない、アイドルが所属する事務所そのものということ。

その事務所には、ゆかにゃたちと一緒に働いて、ゆかにゃたちの努力や積み上げてきたものや成し遂げたことを、私よりも、オタクよりも、近くで見てきた人たちがいる、ということ。

間近で見てきた人たちが、そういう決定に関わらざるを得ないこと。

徒労感のようなものに襲われた。

 

グループの変化が、人生の大きな選択が、本人たちが積み重ねてきたことや、本人たちの意思以上に、「年齢」というわけのわからないやつによって、決まっていくようで。

 

それは、とても、むかつく。

そんなことあってはならない。

認めたくない。

そんな世界間違ってる。

虚しい。

 

それでも、この事務所から離れられないでいる自分の情けなさと罪悪感。

そういう感情を抱くこと自体が、ゆかにゃたちのこれまでの活動を侮辱してるのではないか、という懸念、不安。

 

そうして、こんな考えは甚だしい妄想だ、と思うと、今度は、あらゆることが虚無でしかなくて、もう、わけがわからなくなる。

 

なにをどうしたら良いか、どんなことを思うのが適切で、どういうことを口にするのが適当なのかわからなくなる。

ちょうどいい塩梅はどこにあるだろうか。

 

 

私は、アイドルとかなんとかを抜きにして、Juice=Juiceが好きだ。

この人たちのライブが好きだ。

ライブに心奪われ、少しずつ、好きを重ねて、好きが濃くなって、今はすごい好き。

好きすぎて、これ以上うまくこの好きを表現できない。

ライブだけじゃなくてね、どんな場面のJuice=Juiceも好き。

でもやっぱりライブが1番好きだから、ずっと見ていたい。

見ていたかった。

 

この人たちが、自身で決断して、葛藤して、相談して、グループの活動を模索したり、やめたり、おやすみしたり、また再結成したり、そういう姿を見てみたかった、と思う。強く強く強く思う。

 

いつまでも、Juice=JuiceがJuice=Juiceとして年齢を重ねてゆく世界に、私を連れて行って欲しい。

年齢に応じた活動を、その年齢でできうる活動を続けていく、Juice=Juiceに、会いたい。

おばさん、おばあちゃんになっても、あのメンバーで、ステージに立つJuice=Juiceに、会いたかった。

必ず会いたい。

 

Juice=Juiceが続いていくこと以上に、Juice=Juiceが年を重ねて行く姿こそ、私が見たかったもの。

私にはそっちの方が大事だった。

 

それは7人になっても、8人になった今も、そう。

8人がひとりずつ卒業を重ねていくJuice=Juiceでなくて、8人みんなで試行錯誤しながら、年を重ねる姿を見たかったのだと思う、私は。

ゆかにゃの卒業の知らせを受けて、そのことに気づいた。

 

Juice=Juiceを、死ぬまで、求め続けると思う。

いつまでも夢に見て、夢に見たまま、死んでいくと思う。

 

忘れようとしても忘れられず、諦めようとしても諦めきれないもの。

 

Juice=Juice。

 

 

来年のクリスマスイベントにゆかにゃはいない。

悲しい。さみしい。

意味わからん。

 

リーダー・宮崎由加、ではない、Juice=Juice、そんなことってありえるの?

 

特に、始まりから一緒のメンバーは、みんないっせいにおなじときに始まって、Juice=Juiceとしておなじ時間を重ねてきて、ゆかにゃがメンバーでないJuice=Juiceなんて、Juice=Juiceが始まってから今日まで、そんなJuice=Juice存在したことがないんだよ。

なのに、5人の中で、ひとりはやく、Juice=Juiceとしての時間を終えてしまうなんて、そんなことってあるの?

ずっといっつもJuice=Juiceの積み重ねてきた時間にはゆかにゃがいたじゃない。

家族のような仲間が増えていって。

これからもそうあるんだとしか思えない。

ゆかにゃのいないJuice=Juiceなんて、本当にそんなことありえるの?

それを、Juice=Juiceと呼んでしまえるの?

Juice=Juiceがこれから積み重ねて行く時間に、今までずっとそこにいたゆかにゃが、欠けてるなんて、そんなの、そんなことってあっていいの?

そんなの、寂しいじゃん。やだよ。

Juice=Juiceが積み重ねていく時間には、ゆかにゃが、いて欲しい。

リーダー・宮崎由加がいて欲しい。

ゆかにゃのいないJuice=Juiceを、私はJuice=Juiceと呼ぶの?

今までなかったじゃない、ゆかにゃがいないJuice=Juiceなんて、そんなの、なかったじゃない。

 

 

今日の帰り道は、曇り空だった。

私の住むところは、日中から夜まで、ずっとぐずついたお天気で、はやく流れる雲の隙間からちらちら覗く、まんまるおつきさまの優しいひかりが、ぼんやりとしたひかりなのに、薄雲の向こうからでもわかる明るいひかりで、そんなおつきさまのひかりが、ゆかにゃの声のようで、おつきさまを見ながら、あたたかく切なくなった。

 

ゆかにゃの映像以外はまだ何にも見れてない。

今は見たくない。

誰の言葉も聞きたくない。

メンバーの言葉さえ、受け止められる自信がない。

ネガポジポジを見たよ

今日はWe are Juice=Juiceだから、22時半までなんとか起きてたいんだけど、めちゃくちゃ眠い。

お酒飲んだのでよけいに眠い。

あと、暇なのでめっちゃまぶたが重い。

すると、ブログを更新しちゃうしかなくなるんだな。

そのうち、忙しくなると思うんですけど、年明けるまでは、精神的に暇な日々が続きそう。

 

さて、おととい、ネガポジポジを見てから、私は、改めて、完全に、りさまるが、好きみたい。

 

はぁーりさきき。(Cパターンも見た)

りさききの原動力は、いつもと少し違う、りさまるにあるよね。いつもよりだいぶ強気なりさまるとか、いつもよりだいぶへなちょこなりさまるとか、いつもと少し違うりさまるが、りさききのシーソーを動かすんだと思う。

それほどに、ききちゃんは、ゆるぎない頑固者とも言える。

でもそれ言うなら、りさまるもだいぶ頑固者というイメージあるけど。

 

なもんで、昨日今日と、尋常じゃない頭の中のにぎやかさを、必死にやり過ごし、仕事を乗り切ったよ。ほんとに大変でしたよ。

『りさまる…天ぷら食べたい…りさまる…ネガポジネガポジ…りさまる…今まで生きてきて…りさまる…うう…りさきき…パジャマりさまる…うぁ…』というのがエンドレスで、頭の中を走り回る。

 

そしたら、そういうりさまる好きまるなタイミングで、大学の頃の友人(今はあやちょを崇拝するオタクとなっている)が、雑誌のオフショットのりさまる、つって、完全に、私が好きまるなりさまるの写真を送ってくれたんですよ。

好きまる…う…好きまる…りさまる好きまる…。

スタッフさん、カメラマンさん、画像送ってくれた友人、そして、りさまる。BIG BIG感謝。

 

台所にさしこむ陽の光の中にいるりさまるは、お料理をしています。

うつむいてるりさまる。

左ききのりさまる。

やわらかなウェーブの髪のりさまる。

グレーが似合うりさまる。

やっぱり、りさまるが好きみたい。

 

 

そう。

みなさん、今こそ、ネガポジポジを見よう。

 

リサちゃん。

リサちゃん、と呼べば、りさまるっぽいリサちゃんが、私の頭の中に蘇る。

サラサラ生地のパジャマが妙に似合うりさまるが、あの熱き、ネガポジポジの日々の中に、サラッと立っている。

いや、サラッと立っているように見えて、リサちゃんは力いっぱい踏ん張っていた。

リサちゃんは、最後、逃げるゆみちゃんをとらまえて、へなへなしゃがみこんだ。

   

 

ハロプロ演劇女子部史上に、燦然と輝く『ネガポジポジ』なる文字。

私は、ネガポジポジについて、熱く長い文章を書きたい。

なのに、今、何を書いていいか、わからない。

言葉が出てこない。見つからない。

ネガポジポジのことを、あなたに伝えたい。

幸運にも、ネガポジポジを見たことのあるあなたに。

幸運にも、まだネガポジポジを見たことのないあなたに。

そこのあなたに、伝えたいのに、伝えることができずにいる。

 

そうしてたどりつくのが、このブログ記事である。

 

pep-rep.hatenablog.com

東池袋なのか南池袋なのか、路地に面した小さな劇場での熱き日々を思い出す。

冷静だけど、あたたかな情があふれる言葉に、私のネガポジポジへの想いをすべて、のっけてしまいたくなる。

だけど、それは、この真摯な文章に対して、あまりにも誠意がない気がして、なんとか頑張って、どれくらい長い時間がかかるかわかりませんが、気の向く時に、ネガポジポジについて、かつて感じたことや、今感じてることを、当時の記憶やメモを辿るなどして、なるべく言葉にしたいと、思ってはいます。

 

 

という話をしてたら、あと数分で時間ですね。

 

 

最後に。

 

ネガポジポジ、見て欲しい。

 

私、ネガポジポジだけをレンタルする、ビデオ屋さんになりたいもの。

 

ゆかとものネガポジポジ、ともかりんのネガポジポジ、きーとものネガポジポジ。

それぞれのネガポジポジ。 

りさききのネガポジポジ。

あなたのネガポジポジ。